昭和49年05月27日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか、牛馬はわが子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
助ける事の為にまず、自身が助からなければならない、自分が助からずしておいて、ひとを助けるということは出来ません。勿論信心で助ける、色んな助けると言うても意味が広いですですけども、自分が助かっておらなければ助ける事は出来ないと言う、本当の意味に置いての、助かり又は助けるということは、そういうことだろうかと思います。お互い信心をさせて頂く時に、させて頂くと云う心が出来てまいりませんと。
助けると云う事にはならないのじゃないですね。誰が助けてやったと私が助けてやったと言う様な事では、本当の助けると言う事にはならないと思う。ですから結局恩に着せないと言う事です、そう云う心が信心有難いと心得て信心せよと、人を助ける事が出来ると言うのは有難いと心得て信心せよとこう云う。そう云うまた御用に使うて頂くと言う事が、有難いと解る様な信心でなからなければならない。
だからそこには恩に着せようと言った様な事はさらさら無くなって来る訳ですね。私が助た、助けてやったと、それでは本当の助けた言う事にはならない、そう云う人を助けるというかです、そういう働きと云う物が抜けさせて頂いたと言う事が有難いという信心。所が中々出来かね、してやったとか助けたと言う事になると、必ず所謂恩着せがましいと言うか、恩に着せるそれでは自分自身が助かっておらんと思う。
また助けさせて頂くと言う事が有難いと心得てという、同時に人を助けると云う内容になる、攻めないと言う事人を攻めない、そして此処に難儀な問題が起きて来る、そしてその難儀な問題を人のせいにする。もう是は助かっていない証拠ですね、信心をさせて頂いとって、例えばその痛い思いなら、痛い思いをするのを云うなら難儀を感じる時には、難儀を感じておるのは私自身であるとするならね、自分が痛いと云う思いをしている、難儀を感じておると言う事を人のせいにする。
痛いのは自分なんです、ですからその痛いのとは自分自身にあるのだと言う事が解る、どうして私がこんなにに苦しまなければならんだろうか、その苦しまなければなない元は自分自身の心の中にあるんだと言う事、その苦しまなければならんのは、あれがあぁしたから自分が苦しまなければならんと云う所にある、ひとを助ける働きとか、又は自分が助かっておるとかは言えない。
人を助けると言う事は、人を助ける事よりひどいと言う事、しかも此処では、例えばお金で苦しんでおる人にお金を貸してあげたり、恵んであげたら済む是はここの信心が、まかっても出来る云うなら助け。今日ここでは信心によって助けると言う事なんです、人の難儀を助けられるのは、有難いと心得て信心せよと云う、信心によって助けると言う事はそう言う事ではない、お金で助けるのではない自分が手を貸し助るのじゃない、信心で助けるのだ、なら信心で助けると言う事は。
その信心の内容が、人を攻めない恩に着せない、そう云う内容がきっちりと出来てくると言うか解ると言うか、そこで初めて人を助ける信心で助ける働きも、強いものに成って来るでしょうし、自分自身も助かっておると言う事が言える。今日は勿論人を助けるですけれども、そうあたりは自分が本当に助かるいち早く助からなければならない、其の為に愈々自分も解らして貰う。
もう本当に人を攻めない、人を攻めないで済む信心、その内容は自分自身が愈々信心によって解ると。難儀を例えば今自分が感じておるとするならばです、人が難儀しておるのじゃない、ひとが苦しいのじゃない、自分自身が苦しんでおると思う、その苦しみの元と云うのは自分自身に有るんだと解らしてもらうのが信心。人のせいじゃないだから初代の所か、却ってその自分の苦しんでおると言う事の。
云うならば周辺の方達にお詫びをさして頂きたい心持が参って来るだろうと思う。又人を助ける働きと言う事でも恩に着せるっ所か、そう云う御用にも使いまわし頂けると言う事が有難い。私がこう言ってやったから、こうしてあげたから、いやそこで例えば出来たとしてもです、その出来たことを有難いとして心得て信心さしてもらう、私は人を助けるなら、信心によって助ける働きと云うのは世話んで済む、恩着せないで済む内容を頂く事だとおもうですね。
どうぞ。